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「機を見るに敏」な発明家

トーマスーアルバーエジソンは、「機を見るに敏」な発明家である。彼の前にいた無数の発明家や科学者の成果を巧みに利用して、最終的にはエジソンが電球の実用化の栄誉を担った。彼は、ヨーロッパで開発競争が繰り広げられている「電気を使った明かり」は、将来大きな「事業」になると確信してから、電球の開発に取りかかる。最後の登場者としてレースに参加したのである。この明かりを「事業」にするにはどうしたらよいのか。電球を取り巻くシステム全体を考えるという視点をもっていたかどうかが、彼とほかのレース参加者との大きなちがいであった。また、エジソンがスワンやゲーベルなどの個人発明家とちがうところは、彼の考えを実現するための支援スタッフを雇い、多数のメンバーから構成される、今日でいう研究開発会社を自らつくったことである。エジソンがそれまでの会社勤めを辞めて、発明に専念するようになったのは、1871年にニュージャージー州のニューアークに実験所をつくってからである。ここで電信技術に関する発明を行なったが、さらに1876年にメンローパークに移って、いわゆる「発明工場」をつくり、炭素マイクロフォンや蓄音機の発明を続ける。華々しい成果を挙げたエジソンは、そのつぎの目標を電球開発に絞る。彼は電球開発を組織的に始める前の1875年に、炭素フィラメント電球に関するヘンリー・ウッドワードとマシュー・エヅアンスのカナダ特許(1874年)を購入している。この特許は、窒素ガスを封入したガラス球のなかに、細い棒状の炭素を電極で支えた電球に関する特許であったが、ウッドワードとエヴァンスには事業化する資金がなく、エジソンに特許を売り渡したのである。それまでの電球の寿命の短い理由が問題と炭素フィラメントの材質の問題であることは明確であった。彼は所員を総動員して、水銀排気ポンプの改良と炭素フィラメント材料の探索と改良を徹底的に行なう。そのようななかで、『サイエンティフィックーアメリカン』誌の1879年7月号に載り、スワンの発明になる炭素フィラメント電球の記事を知ることになる。所員のチャーチルーバチェラーは記事の情報を参考にして、木綿糸を炭化した炭素フィラメント電球の実験を行なう。その電球は、1879年10月19日から21日にかけて、40時間以上も発光しつづけた。およそ2日間である。