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オーディエンスの主体性

「記号論的な民主制」をめぐるフィスクの議論の決定的な限界は、我々の日常生活がテレビを観るという行為に枠づけられていくときに作動するこうした権力の作用を、彼の議論が適切に扱えない点にある。我々は、たしかにテレビで放映された番組の内容に関しては、送り手の意図通りの読み取りをするとは限らないし、かなりの程度までテクストへの意味付与を「民主的」にやっていく能力を持っているのかもしれない。だが、テクストの解釈がどれほど「民主的」になされようとも、そうしたオーディエンスの主体性は、そもそもメディアの技術論的な作用のなかでシステムのエージェントとして巧妙に構成されているのかもしれないのである。換言するなら、日常のなかでのメディアをめぐる闘争や折衝は、単にテクストの解釈をめぐってだけでなく、こうしたメディアのプレイミンクをめぐっても繰り広げられているのである。『ファミリー・テレビジョン』以降、とりわけ90年代に入り、シルバーストーンやケビン・ロビンズとの共同作業を進めていくなかでモーレーが進んできた方向は、このようなオーディエンスによるテクストの解釈過程からドメスティックな空間におけるメディアの消費過程への焦点の移行であったように思われる。毎月楽しみな雑誌は、小山薫堂さんが連載している「dancyu」。彼は、企画会社オレンジ・アンド・パートナーズの社長であり、東北芸術工科大学デザイン工学部の講師もしているんです。フリーの物書きではなかったのですね。
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小山薫堂のメッセージ